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2015年7月31日 (金)

「心の在り処を探す」~松村由利子歌集『耳ふたひら』を読んで~

転調ののちの明るさスコールが上がれば島は光を放つ 

(「島時間」)

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 Ⅰ章はかがやく島の風景で始まる。光の粒がはじけるような、プレリュードが聞こえてきそう。

 小説と違って、歌集のいいところは、読み終わっても、どこにもたどり着かなくていいことだと思う。なんの結末も用意されていないし、それを期待しなくてもいい。松村由利子さんの第四歌集『耳ふたひら』を読んで、そんなことを強く感じた。

 でも、この歌集は通読すると、一人の女性の、ある一時の物語のように流れ込んでくる。著者があとがきで記すように、沖縄・石垣島へ移り住んだのちに詠まれた歌で、すべて組まれているからだろう。
 

パンプスはもう黴だらけ六月はどこへ行くにもサンダルとなる

島時間甘やかに過ぎマンゴーの熟す速度にわれもたゆたう

(「島時間」)



不意打ちの雨も必ず上がるから島の娘は傘を持たない

(「自由移民」)



 Ⅰ章は、沖縄に移り住んですぐの、その土地への驚き、好奇心に満ちた視線で詠まれた歌が並ぶ。パンプスの黴に落胆しながらも、サンダルを履けばいいじゃないの、と開き直れば楽しい。雨はすぐに上がるし、濡れてもすぐに乾く、という土地柄、傘を持たなくても困らない、ということだけど、作者にはそのことがすでに自由の象徴のように感じられるのだろう。

 フィジーという太平洋の島の人たちのことを思い出した。リゾート地として有名だが、その地に暮らす人たちの村には、電気も水道もない。もちろんアスファルトもない。村人はみな裸足で土の上を歩く。わたしは訪れた時、スニーカーに靴下まで履いていた。招かれた家に着くまでにどろどろになり、脱ぎ捨てたくなった。触れれば、土はしっとりとつめたく、肌に心地いい。なるほどと思った。ここでは靴は必要なかった。
 しかし、暮らすということは、呑気なだけではいられない。


手つかずの自然という嘘 除草剤撒かねば道が塞がれる島

長き夏長き戦後を耐えてきて楽園なぞと呼ばれたくなし

くっきりと光と影は地を分かち中間色のわれを許さず

(「光と影」)



 元全国紙の記者だったという著者の目は、美しい風景の中の、消えない過去と、見過ごせない現実に向けられる。
 わたしにとって沖縄は、戦争の歴史のあることを認識しつつも、旅行会社のパンフレットの写真のような、青い海、白い砂浜、咲き誇るハイビスカスのイメージだ。
 その土地に暮らすことでしか見えない風景を、由利子さんは詠う。旅行者が見ることのない島の美しさ、素晴らしさを体験する一方で、嫌がおうにも、余所から来た者、「自由移民」としての自らを自覚する。それは、ずっと続く。


南島の陽射し鋭く刺すようにヤマトと呼ばれ頬が強張る

(「光と影」)


言うなれば自由移民のわたくしがぎこちなく割く青いパパイヤ

( 「自由移民」)


 潔い文体には胸をすくような表現も多い。糾弾をいとわない言葉もある。物事を曖昧にして見過ごすことを良しとしない、心のあり方がまっすぐな作者像が浮かぶ。
 時に、ごまかしたり嘘をついたりしない、できない、という自らの誠実さを窮屈に感じておられるのかもしれないと読んだ。移住後も、フリーランスの記者として、東京でのお仕事が始まると、そのことはよりくっきりとしてくる。


人はここに住むべからずと言うようにものみな錆びる南島の夏

(「錆びてゆく」)


都市の力見せつけているキオスクの朝刊各紙の厚き林立

これもまたユルスナールの靴じゃない買ったばかりのパンプス憎む

信号が変われば群れに組み込まれ都市の速度に小突かれるのだ

(「TOKYO」)

 作者にとって住みなれたはずの「都市」がすでに居心地のいいものではなくなっている。パンプスも履き心地が悪い。では、彼女が体の力を抜いて安堵する地はどこにあるのか。わたしはこの歌集を読みながらそれを探した。

 「女は三界に家なし」という言葉を思い出す。中学生くらいの時に母から聞いたのだが、女には生まれた家も、嫁いだ家も、死んでから入る墓も自分の本当の家ではない、という意味だと教わった。だからお母さんの本当に家は、この世にもあの世にもない、と言われ、母はなんと悲しいことを言うのだろうと思った。今ではもう、わたしもそのことがよくわかる。

寄留者であった会社のわたくしも離島へ移り住んだわたしも

(「寄留者」)


 由利子さんも自分を本当に受け入れてくれる地を探しているのではないか…。移り住んできたからには、自らをここに馴染ませたいと思う気持ちや、島の人たちとのギャップを受け入れるための嘆きのような諦めが入り混じる。一方で、島の魅力に触れ、彼女がどんどんこの地を好きになっていいくようすがドラマチックだ。


人はここに住むべからずと言うようにものみな錆びる南島の夏

(「錆びてゆく」)


ああわたし大地とつながる手をつなぎ踊りの輪へと入りゆくときに

(「秘祭」)

わたくしも島の女となる春の浜下りという古き楽しみ


(「どこまでが春」)


 季節が春へと移る中、島の表情もやさしく、作者の心もやわらかくなっていく。

ハイビスカス冬にも咲きて明るかり春待つこころの淡き南島
(「夜の舌」)

鳥の声聴き分けているまどろみのなかなる夢の淡き島影
(「どこまでが春」)



 それに、由利子さんは一人で移住したのではない。あとがきに「島暮らしをしよう」と誘われてこの地にやってきたことが書かれてある。そのことが、この歌集を読む時に、ふと由利子さんのくつろいだ素顔が垣間見えるようでほっとする。

向かい合う私とあなた停電の夜の背中を闇に浸して

(「停電の夜に」)

ひらかれぬままの書物が眠る部屋ノックするごとあなたに触れる

(「一回休み」)



 Ⅱ章の「夢の終わりの」と「鹿とザムザ」は、この歌集の中にあって、一休み的な恋の一連と読んだ。夢と現実が交差するような、抒情的で、作者の心の中が自由に羽ばたいたような、不思議な歌群だった。「鹿」が恋をする者の象徴として出てくる。作者の独り言のような歌には、思わず話しかけたくなった。

夢に会う人のてのひら温かくかかと失くしたように躓く

(「夢の終わりの」)

残り時間と恋は関係ありますか 奔放なりしかの子を思う

握手したのちのぬくもり頬に当て違うんだなあとつぶやいている

鹿となる小暗き森を駈け抜けて清き水辺で落ち合うときに

濡れた手で触らないでね明け方の心は染みになりやすいから

(「鹿とザムザ」)



 この歌集の一つの答えというか、決着をみるような歌群があるとすれば、Ⅲ章の「天衣」がそうだと感じる。

多分もっと激しい恋があったこと朝あさ君に注ぐカフェ・オ・レ

パイナップル毎日食べて甘き香を放つ女となりゆく五月

宴果てて帰る夜道にくっきりとわが影踊る 今宵満月

(「天衣」)


 世の中は煩わしく、意のままにいかないことだらけだけれど、ともに暮らす人がいて、世界はまだこんなに美しい。

三食をあなたと分かつ南島に塩も醤油ぐんぐん減りぬ

(「悲は返すべし」)

落ちて来る最初の雨滴受けようと窪めるときの手のやわらかさ

(「雨待ちて」)



 作者の心はまだ、答えのない旅の途中にあるとしても、この歌集において、読者にとって生きるということの逞しさ、喜びも落胆も、すべてありのまま受け入れること、時には諦めることも前進であることを感じさせてくれる。

海に降る雨の静けさ描かれる無数の円に全きものなし

(「霖々と泣く」)










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